
不愛想な治療士は初恋の幼なじみを逃がさない
- 発売日2025.08.22
- 価格¥792(税込)
※価格や発売日はストアによって異なります。
……ようやく、だな。
街の工房で働くヴィオリーナは、成人を目前にして、ある悩みを抱えていた。亡き父の弟子であり、密かに想いを寄せてきた異民族の青年ルシエルとの関係についてだ。彼は軍の優秀な治療士として活躍する一方、家事能力がなく、部屋はいつも散らかり放題。そんなルシエルの世話を焼くことで特別な繋がりを保ってきたが、彼からは妹以上に見られていないとも感じていた。いい加減、彼から離れなければと思うヴィオリーナは、知り合いの男性の誘いを受けて食事に行くことにしたのだが――。そのことを知ったルシエルが、これまで見せたことのない激情をあらわにして――!?
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人物紹介
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ヴィオリーナ
幼い頃に母を、数年前に父を亡くして天涯孤独の身。金属加工の工房で働いている。忙しいルシエルのために彼の家の家事全般をこなす。ルシエルのことが好きだが、自分がいるせいで彼が未婚なのではないかとも思っている。
-
ルシエル
土砂崩れで家族を失ったところをヴィオリーナの父に保護され、しばらく一緒に暮らしていた。ヴィオリーナの父は自分のせいで死んでしまったと思っている様子。ぶっきらぼうだがヴィオリーナのことは大事に思っている。
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「うまそうだな」
頭上から降ってきた声に意識が追憶から引き戻される。振り返るとルシエルが濡れ髪をタオルで拭きながら、ヴィオリーナがかき混ぜている鍋を覗きこんでいた。
「ちょっとルー君! ちゃんと服を着てってばっ!!」
間近に迫った褐色の素肌に心臓がどくりと跳ねる。思わず声を荒げると、ルシエルがむっとしたような表情を浮かべた。
「風呂あがりで暑いんだよ。それに、下はちゃんと穿いてるだろうが」
「そういう問題じゃないの!」
いくら兄妹のような間柄とはいえ、血の繋がりはない。しかもお互い年頃の男女なのだ。あまり無防備な恰好をしないように、という頼みもまた他のお願いと同様にスルーされていた。
「ほら、もうできるから! はやく着てきてよっ!!」
「はいはい」
面倒くさそうに返したルシエルが寝室へと向かっていく。裸の背を睨みつけていたヴィオリーナは姿が見えなくなると小さく溜息をついた。
治療士にも体力が必要らしい。細身ながらしっかりと筋肉のついた肉体を目にするたび、激しく鼓動が乱れるようになったのはいつからだろう。
頬が赤くなっているのは火を使っているせい! と自分に言い訳をしながらスープを皿に注いだ。
「そういえば、書斎にグラスが置きっぱなしになってたんだけど?」
「あれ、忘れてた。書斎のどこにあったんだ?」
ルシエルが薄手のシャツを着て戻ってくると、忘れないうちに注意する。
食器は洗わなくてもいいから、必ずシンクに入れる。それがこの乱雑な居住環境を容認する必要最低限の条件だというのに、それすらも破られることが度々あるのだ。
「グラスの上に本が積まれてた」
「あー、それは気付けないな」
「気付けないじゃない。 まったく、割れたりしたら危ないでしょ!」
「はいはい。悪かったって」
ヴィオリーナは本気で注意しているというのに、まったく響いている様子はない。ルシエルは軽い口調で謝ると椅子に座り、書斎から救出したグラスで水を飲んだ。
置き去りにされていたグラスの中身は空っぽだったし、入っていたのも今と同じ水のようだったので汚れは気にならない。とはいえ、放置するのはルール違反なのだ。
「まったく……お嫁さんになる人が気の毒だよ」
「その時はまぁ、ちゃんとする」
――それって、どういう意味?
結婚したらちゃんとするのだろうか。いや、できるのであれば是非とも今からでも実行してもらいたい。
そうすれば今よりも料理に使える時間が増えるので、もっと手の込んだメニューを用意できるのだが、ヴィオリーナ相手だと努力する気も起きないらしい。
いや――むしろ本性をさらけ出せる存在だと思ってくれているのだろうか。
それを喜ぶべきかどうか、正直よくわからない。ヴィオリーナは取り留めのなくなってきた思考を遮断し、市場で買ってきた焼き立てのパンを入れた籠をテーブルに乗せた。
「おまたせ。食べよう」
「あぁ」
ルシエルの家に来た時は一緒に食事をするのが習慣になっている。小さなダイニングテーブルを挟んで向かい合わせに座り、食事をしながら他愛のない会話をする。といってもヴィオリーナが一方的にあれこれ話し、ルシエルはただ黙って聞いているのがお決まりのパターンなのだが。
こんな時に湧きあがってくる、懐かしくて、温かくて、少しだけ切なくなるこの感情に付ける名前ならとうの昔に知っている。
だが、ヴィオリーナがこの想いを口にする日は訪れないだろう。
自分とルシエルの関係はあくまでも兄妹のようなもの。異性に抱く感情をほんの少しでも見せたら最後、すぐに破綻するだろう。誰より近しい立場を失うような真似だけはどうしてもできなかった。
――私達はこれでいい。
使った食器を片付けながら、ヴィオリーナは自分にそう言い聞かせた。