
傷ついた聖女は英雄将軍の愛に囚われる
- 発売日2025.09.26
- 価格¥891(税込)
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聖女など要らない。欲しいのは君だ。
戦地での献身的な働きにより『救国の聖女』と呼ばれるようになった子爵令嬢スワニー。だが、その称号を求めて近づく貴族たちに馴染めず、王都での平穏な暮らしにも罪悪感を抱いていた。一方、戦争を勝利に導いた『英雄』マウリツィオは、戦場で出会ったスワニーを忘れられずにいた。戦地で気を失った彼女を魔術で王都へ送り届けた際、無事を確かめるために刻んだ「標」を、なぜか消せずにいたのだ――まるで、彼女を自分に繋ぎとめたいと願うかのように。やがて再会を果たした二人は、戦争の痛みを分かち合いながら心を寄せ合っていく。しかしそんな折、スワニーにある危機が迫り――!?
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人物紹介
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スワニー
子爵家の長女。戦場での苛烈な体験から、生き残ったことへの罪悪感を抱えており、「聖女」と称えられながらも、華やかな社交界には馴染めずにいる。
-
マウリツィオ
劣勢だった戦局を覆し、勝利へと導いた英雄。地位目当てに近づく貴族令嬢たちに嫌気がさしているが、スワニーに対しては特別な想いを抱いている様子。
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「下がって」
騎士は井戸から一歩離れると、くい、と掌を振った。
次の瞬間、ぐらりと空気が歪んだ気がした。周囲に積まれている煉瓦がばらりと崩れ落ち、井戸の中にぼちゃん、ぼちゃんと落ちはじめた。建屋の屋根も、壊れた滑車も、一気にばらばらになって穴に吸い込まれてゆく。
その様子を、スワニーと下男が口をぽかんと開けて呆然と見守る。最後に周辺の土がざあぁっと流れ込み、あっという間に井戸は埋まって、平坦な地面となった。まるでそこに井戸など無かったかのように。
「す、すごい……」
「これでよいか?」
「は、はい。助かりました。ありがとうございます」
スワニーは銀髪を跳ねさせながら、がばっと頭を下げた。
「私の名は、マウリツィオ・リュイエルだ」
「っ⁉ リュイエル閣下、でいらっしゃいましたか」
幾度もその名を聞いたことがあるから、さすがに覚えている。戦況をひっくり返しルスマンに戦禍が及ぶことを食い止めてくれた大恩人ではないか。とてつもない魔術を操り、此度の戦争で大活躍したという救国の英雄だ。
「閣下のご活躍のおかげで我が領地は救われました。その偉大なご功績に、心から御礼を──」
「……」
ふと顔を上げると、マウリツィオはじっとスワニーを見つめていた──顔ではなく、スカートを摘まんでいる手のあたりを。
スワニーは羞恥に俯いた。纏っているのは地味な灰色のワンピース。肌のあちこちが土で汚れ、痩せて荒れた手指。飾り気なくひっつめた結い髪。地面に置かれたシャベル。子爵令嬢を名乗るにはあまりにも粗末な姿に、スワニーが本当に領主の娘であるかどうかを疑われているのかもしれない。
マウリツィオの視線から逃れるように、スワニーは両手を胸の前で組み、もう一度深く膝を折った。
「この井戸のことがずっと気がかりだったのです。本当にありがとうございました」
「いや、礼には及ばない。土地が戦禍に傷ついたのはそこに住まう民の責ではない」
マウリツィオはスワニーから視線を外し、周囲をぐるりと見渡した。崩れかけた家々。ガラスの割れた礼拝堂。枯れた果樹や荒れ果てた路地、そして亡骸の埋められた窪地に刺さった、古びた墓標に視線を遣る。
「──とはいえ。この村にはもう人は住めないな」
「はい。毒の影響がどこまであるかわかりませんが、ここダルフォーと周辺の村は居住を禁じるほかありません」
「かなり荒れてはいるが、廃墟が建ったままでは住み着く者が出るかもしれん。建物を全て取り壊すほうがよいだろうな」
「お待ちください」
軽く手を上げたマウリツィオの眼前に、スワニーが一歩進み出た。
「閣下のお力を、ここでお使いいただくには及びません」
「?」
「多大な犠牲の上に戦勝を勝ち取って、隣国からは多額の賠償金が支払われたと聞いています。領主である父の仕事は、そこから戦後復興の資金をいかに領地に持ってくるか、ということです」
復興資金を集めて、路頭に迷っている領民たちに仕事を与えたい。近隣に散った民も呼び戻し、彼らの生活を支えてやらねばならないのだ。
「ここダルフォーは歴史ある村です。資材に思い入れのある者、再利用したいと願う者も居るでしょう。まずは村長を捜し、この村をきちんと閉じさせようと考えています。それに先立って、井戸だけは埋めてしまおうと──」
「なるほど、そういうことだったのか」
マウリツィオは深く頷いた。
「私は領地経営には疎い。確かに、ここに住んでいた者たちに有益な形で復興を進めることが一番良いのだろう」
「お、恐れ入ります」
スワニーはしゃがみこまんばかりに膝を折って恐縮した。
こんなみすぼらしい姿の小娘が、将軍職にある男性に偉そうな口をきいてしまった。スワニーの制止を受け入れてはくれたが、気を悪くされているのではないだろうか。
「ルスマン子爵令嬢。顔を上げてくれ」
ぼそり、と低い声が頭上から降ってきて、スワニーは恐る恐る姿勢を戻した。見ると、目の前にマウリツィオの手が差し出されている。
「え?」
こちらに向かって差し伸べられた、ごつごつと大きな手。しかも、わざわざ手袋を取って。
スワニーは目の前の大きな手と、マウリツィオの顔を交互に見つめた。いったいどういう意味なのだろうか、と戸惑うスワニーに、マウリツィオは少し困惑したように眉尻を僅かに下げた。軽く背を屈め、スカートを摘まんだままのスワニーの左手をそっと取り、掬い上げた。
「っ?」
マウリツィオは掌に載せたスワニーの手の甲を、親指でするり、と撫でた。さっきまでシャベルを握っていたせいで土に汚れ、爪の周りはささくれて、手首まで小傷だらけだ。
「──戦ってきた手だな」
マウリツィオはそう呟くと、緊張のあまり冷たくなったスワニーの手を温めるようにそっと握りこんだ。さらにそのまま、白い甲に自らの額を軽く押しつける。
「っ」
茫然としていたスワニーがはっと我に返った。
瀕死の騎士たちの世話をしていたとき、息も絶え絶えの彼らがこのようにスワニーの手を取り、額につけてきたことがあった。彼らが言うには、それは「騎士が授ける景仰と敬愛のしるし」。忠誠を誓う跪礼に次ぐ、深い感謝を表す行為らしい。
なぜ、初対面の相手──しかも将軍閣下からこのように礼を尽くされるのか。混乱し目を真ん丸にしているスワニーに向かって、マウリツィオはふっと表情を緩めた。
「……ではまた」
慌ててもう一度膝を折ったスワニーが顔を上げたときにはもう、マウリツィオは青毛馬の背に跨り、走り去っていくところだった。