公爵は仮初めの妻を逃がさない(上)

公爵は仮初めの妻を逃がさない(上)

  • 発売日2023.12.29
  • 価格¥792(税込)

※価格や発売日はストアによって異なります。

君を妻と呼ぶなんて、大切に扱うなんて、してはならないのに。

家族を捨て、公爵の愛人になった母。その死の報せを受けて公爵家に赴いたミレーヌは、突然、公爵の息子オクタヴィアンと結婚するよう命じられる。正妻の息子であるオクタヴィアンにとって、憎い愛人の娘との結婚は耐え難い屈辱のはず。初夜、「君を愛することはない」と、オクタヴィアンに白い結婚を提案されたミレーヌは当然のことと受け入れた。だが彼は、態度こそそっけないものの、ミレーヌを公正に扱ってくれる。清廉な彼にこれ以上負担はかけたくないと、城の者たちの冷たい仕打ちに耐えるミレーヌだが……。

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人物紹介

ミレーヌ

公爵領の騎士階級の家の娘。母が家族を捨て公爵の愛人になったため、肩身の狭い思いをしている。弟の将来のためオクタヴィアンとの結婚を受け入れるが……。

オクタヴィアン

公爵家の嫡男。愛人にかまけて仕事を疎かにする父に代わり家を守ってきた。父の命令でミレーヌと強引に結婚することになる。ミレーヌが愛人の娘と知る前に一度出会っており……。

試し読み

 ミレーヌは城の回廊を早足で進んだ。
 いつの間にか雨が降っていた。
 途中、濡れた石畳に足を取られて転びかけ、おざなりに結った髪が崩れかけているのも気にならない。
 頭から、甘く纏わり付くような母の声が離れなかった。
 再会するまで、ミレーヌは母の声を忘れていた。
 母を求めて泣く弟を必死にあやしているうちに、病に臥せて咳を繰り返す父の背をなだめているうちに、かき消されてしまっていた。
 母は、騎士とは名ばかりの、領地を持たない家臣の家に生まれた。幼い頃からその美貌は抜きん出ていたらしい。
 成人の儀式の日に城に上がり、当時は跡継ぎだった公爵と出会い、恋に落ちたという。公爵には既に許嫁がいたにもかかわらず。
 彼は身分違いの恋人との結婚を望んだが、許されるはずもなく、すぐに公爵夫人により修道院に放り込まれる。
 夫人はさらに、息子を誘惑した不埒な女を、公都から遙か北方を治める小さな家に嫁がせた。醜聞の源を片付け、大貴族としての面目を保ったのだ。
 エギーユ家は、主家の跡継ぎが起こした色恋沙汰が届くには遠すぎた。
 たとえ気づいていたとしても、主家から直々に世話された縁談を断ることができたとは思えないけれど。
 母に最後に会ったのは、シリルが生まれた夏。
 乳の出が悪い母のため、祖母が雇った乳母がやってきた日だ。その日に母はエギーユを出奔した。城の公爵のもとへ走ったのだ。
 ミレーヌがこの城に来るのが嫌だったのは、母に会いたくなかったからだ。
 でも、欠片でも希望がなかったとは言えない。慕わしさが全くなかったとは言えない。
 目の前に現れた娘に、ほんのわずかでも母らしいことをしてくれるのではないかと。放っておいてごめんなさいとか、娘らしくなったわねとか、声をかけてはくれないかと。
 娘と息子に涙を流してわびるとか、夫への裏切りを悔悟して打ちひしがれることなんて期待はしていなかった。
 だって、八年前に出て行ったきり、手紙のひとつも寄越さなかった人なのだ。
 それでも、家族にほんの少しの情を見せてはくれないかと思っていた。
(何を期待してたのかしら)
 でも、あんな場所にいるなんてあんまりだ。
 付き添いさえ遠ざけられたミレーヌの隣ではなく、壇上で、公爵にしなだれかかって微笑んでいるなんて。弟の名前を忘れているだなんて。
 昼の少女たちの嫌がらせなど、母の仕打ちに比べれば児戯に等しい。
 母の言葉には悪意がないのだ。なぜなら、娘にも息子にも何の関心もないから。
 だからこそ深くミレーヌの心を傷つける。
 ミレーヌはいつの間にか、昼にオクタヴィアンと出会った噴水の前に来ていた。
 霧のような雨に濡れる庭園の真ん中で、薔薇のアーチはどこか寂しげに佇んでいる。
 ミレーヌはよろよろと噴水のへりに腰を下ろした。
 両手で顔を覆うと、俯いた拍子に崩れかけの髪から白薔薇のつぼみが零れた。
 ふたつ、みっつと、次々に落ちていく。
 芝生の上に転がったつぼみは、早くも萎れかけていた。茎は黄ばみ、先端には皺までできている。
 拾おうと身を屈め、指先が届く前に手を止めた。
 視線の先に、革靴の爪先が見えたのだ。
 顔を上げると、そこには彼が立っていた。ミレーヌの髪に白薔薇のつぼみを飾った人。母の愛人の息子。オクタヴィアン・ド・ジャダンドゥールだ。
 彼は優雅な仕草で身を屈め、長い指で萎れたつぼみを拾い上げる。
「――宴にも遅れるつもりか?」
 感情の読み取れない声音だ。
 それでも彼は、やはり美しい人だった。
 ミレーヌはゆっくり立ち上がり、真っ直ぐに彼を見上げた。
「先ほどは……、大聖堂の儀式に参加させてくださって、ありがたくぞんじます」
 昼間、花をくれた彼に礼を言ったときとは、何という違いだろう。
 彼に感じた温かな慕わしさ。儀式を前にした初々しい気持ち。
 それがたった半日の間に濁り、挫けて、萎れてしまった。
「宴は辞退しました。エギーユは遠い地です。明日、夜明け前に発つつもりです」
(宿舎に帰ろう。朝まで寝台の中に身を隠して、息を潜めてやり過ごすの)
 宴に出るはずのミレーヌが今すぐ帰りたいなどと言ったら、きっと爺が心配する。城の厩舎で休めるはずの馬たちも可哀想だ。
「わたしのような者には、華やかな場は毒です」
 目を伏せて言ったミレーヌを、彼は鼻で笑った。
「勿体ないな。父は宴で、君をさぞ手厚くもてなすだろう。他の家臣の子らを差し置いて真っ先に謁見に呼んだように」
 君の母親のご機嫌取りのためならば。
 最後の一言で、彼がミレーヌと母のことをどう思っているか、察するには十分だった。
 ミレーヌにとって、公爵は母を奪い、父を苦しめた恨めしい相手だ。
 同時に、彼にとってはミレーヌの母こそが許すまじき相手だ。父の品行を汚し、母の命を縮めた。公爵家の名誉を汚した姦婦だ。
「これはもう、いらないな」
 オクタヴィアンがゆっくりと手を握り込む。
 萎れかけのつぼみは、もろく潰れてしまった。
 純潔を思わせる美しい花は、道を外れた女の娘には過ぎたものだったのかもしれない。
「君は、二度とこの城に来ない方がいい。……来ないほうが、幸せなはずだ」
 子どもに言い聞かせるようにゆっくりと、彼はどこか悲しげな声音で言った。
 そうしてゆっくりときびすを返し、城の奥へと去って行く。
 つぼみのままにひしゃげた花は、儚い夢の亡骸のようだった。
 ミレーヌは芝生に膝をついた。ドレスが汚れるのもかまわなかった。
 咲かぬまま命を終えた花が哀れで、拾い集めずにいられなかった。

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