君を愛さずにはいられない~失われた記憶と再びの恋~
- 発売日2023.10.27
- 価格¥880(税込)
※価格や発売日はストアによって異なります。
君を手放したくない、けれど幸せでいてほしい。
戦地で消息不明になっていた夫ネイトが帰ってきた。だが彼は大怪我の影響で五年分の記憶を失い、妻であるグレースのことも忘れてしまっていた。さらには、グレースとの結婚について「何かの間違いでは」と呟く。かつて明るく語りかけてくれた夫は、今は寡黙で、グレースの視線から逃れるように目を合わせてくれない。密かに傷つくグレースだが、彼に思い出してもらうために奮闘する。一方ネイトは、グレースに惹かれる自分に気づいていたが、彼女に微笑みかけられるたび、今の自分のふがいなさと、過去の自分への嫉妬心が湧き上がり……。
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人物紹介
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グレース
食堂の看板娘で、客からの人気が高い。夫が戦地で消息不明になったと聞いても、彼の帰りを信じて待ち続けていた。以前と様子の変わった夫に戸惑うも、彼を好きな気持ちは変わらない。
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ネイト
軍人で階級は大尉となった。戦地で大怪我をして、グレイスと会ってからの記憶を失う。以前は、快活で頼りがいがあると街でも評判だったが、今は口数が少なく人と関わろうとしない。
試し読み
「どうしたんだグレイス、浮かない顔をして」
近くでそんな声が上がった。慌てて顔を上げる。仕事中に考え事をしてしまっていた。
見知った顔が微笑みかけてくる。
「ネイト、帰って来たんだろう? この間、見かけたぞ。声を掛けたんだが、こっちに気づいていないみたいだった」
そう言ったのは、常連客のひとりだ。大きな声だったので食堂中の人がこちらを振り向いた。グレイスは皆の視線を感じながら頷く。
「うん。そうなの」
「やっと戻って来られて、ネイトも大喜びだろう」
「グレイス、仕事なんかしてる場合なのか。そばにいてやれよ」
「ネイトのことだ、どうせ待ちきれなくなってすぐに店に顔を出すさ」
「あいつ、非番の日はずっとグレイスのそばに貼りついてたもんな」
「夜道が危ないだなんだって、毎日迎えに来てさ。懐かしいな」
常連たちが口々に言う。小さな街の食堂だから、客同士も顔なじみで仲がいい。
「残念だったなぁ、ベン」
誰かが店の隅のテーブルに声を掛けた。
「ネイトが帰って来ちまったら、おまえに勝ち目はないな」
ベン、と呼ばれたその人物はグビ、と目の前の酒を呷った。そして充血した目でグレイスを見る。ベンことベンジャミンはグレイスよりも年下で、まだ成人したばかりの若者だ。半年ほど前にふらりと街にやって来て、今はネイトとグレイスの家の裏手にあるサンダース家の二階に間借りして暮らしているのだが、お酒の飲み方を知らないので、時折酔いすぎて周囲の世話になっている。
「……軍の友達に聞いたんだ。グレイスの旦那、忘れちまってるんだろ? グレイスのことも何もかも。頭をぶつけたかなんかで」
ベンの低い声に、一瞬店がしんと静まり返った。
「どういうことだ?」
「『忘れちまってる』ってなんだ?」
「グレイス、本当なのか?」
「いや、ネイトがグレイスを忘れちまうなんて、そんなこと――」
「そこまでっ」
大皿を目の前に掲げたおかみさんが割り込んでくれた。
「ネイトは帰って来たばっかりなんだ。あれこれ言わずに、ふたりで静かに過ごさせてやっておくれよ。心配なのはわかるけどさ。ねっ?」
客たちはおかみさんに気圧されるように頷き、口をつぐんだ。
グレイスは視線を落とし、黙ってテーブルを拭く。
「……僕にしとけばいいのに」
沈黙を破ったのはベンだった。
ろれつの怪しい口調でそんなことを言う。
「ベン、あんたねぇ。そのくらいにしときなさい。ほら、お水飲んで」
おかみさんがグレイスとベンの間に割り込み、彼のテーブルに大ジョッキの水を置いた。後ろ手でグレイスを脇へ押しやる。ベンが酔っ払ってくだを巻くたび、こうして守ってくれるのだ。
「僕は本気だよ。僕よりも、自分のことを忘れてるような男の方がいいか? 本当にそいつはグレイスを愛してるのか? 僕だったら、絶対にグレイスのことを忘れたりしない。何があっても。皆だって、そう思うだろ? 妻のことを忘れるような薄情な男に、皆の大事なグレイスを任せられるのか?」
ぎゅ、とベンに手首を掴まれた。おかみさんをよけて伸びて来たのだ。
掴まれた手首よりも、ベンの言葉に傷つけられた胸の方が痛い。
「ベン、酔っ払ってるのはわかるけど、放して――」
グレイスの声を遮るように、ガララン、とドアの鐘が音を立てた。
皆の視線がドアへと向かう。
「……ネイト」
そこにはネイトが立っていた。彼はグレイスを見、おかみさんを見、ベンを見る。表情ひとつ動かさない。
「ネイト、どうしたの?」
「……もう外が暗いし雨が降り出しそうだから」
ネイトがそう呟いた途端、店のあちこちから声が上がった。
「ほぅら、俺たちの言ったとおりだ」
「さては記憶がなくなったなんて嘘だな? 俺たちをからかってるんだろ」
「変わんねぇなぁ。グレイスのことが大事で仕方ないんだろう」
「ベン、心配いらねぇよ、ネイトは昔のまんまだ」
「あの、皆、ちょっ――」
「皆黙んな!」
おかみさんの威勢のいい声が店に響いた。
「黙らないなら、今夜は酒の値段を倍にするよ。嫌なら口を閉じな」
野太い声に、皆ふたたび押し黙った。酒代が倍になるのは財布に響くだろうし、それ以上に、おかみさんを怒らせると怖いことを知っているからだろう。
グレイスはネイトが気まずい思いをしているのではと心配になって、彼を見た。ネイトは目を逸らした。
「見ろよ。やましいことがなきゃ目を逸らしたりしない」
「ベン、あんたは倍ね」
「僕は本当のことを――」
「四倍」
おかみさんがピシャリと言い、ようやく静かになった。
ネイトの眉間には、深い深いシワが刻まれていた。